JAVAが動物の解剖実習に反対する理由
JAVAは、小中高校や専門学校、大学における動物の解剖実習について、生徒・学生や保護者の方々から、「やりたくない」「やらされて、つらかった」「学校に廃止を働きかけてほしい」といった、多くの相談を受けてきました。
JAVAがどういった理由で解剖実習に反対し、学校や大学に廃止を求めているか、今回改めてお伝えします。
解剖をやるもやらないも学校次第で、野放し状態
現在、小・中・高校(以下、学校)に対して解剖実習の実施は義務付けされていませんが、禁止もされていないことから、学習指導要領の「動物の体のつくり」「生殖・発生のしくみ」などの課題に対して、理科や生物の担当教師が安易に解剖を実施するケースが後を絶ちません。
文部科学省の「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」は学校を適用対象から除外しています。そのため、たとえば同じマウスの解剖でも、大学では動物実験計画書を作成して動物実験委員会の審査、学長の承認を受ける必要があるのに対し、学校では理科や生物の教師の判断ひとつで実施できてしまうのが現状です。つまり、日本において学校での解剖は野放しの状態になっているのです。
多くの生徒が解剖体験で傷つき、苦しんでいる
「かわいそう」「気持ち悪い」などの理由から、解剖実習を嫌がる生徒は多数おり、これまでJAVAにはそういった生徒やその保護者から、「解剖をやりたくない」「死体はモノじゃない。解剖をやめさせてほしい」「体験してつらかった」「二度と解剖を実施しないように学校に働きかけてほしい」などの声が数多く寄せられています。生徒たちは「やりたくない」と思っても、「成績に影響したら困る」「先生に嫌われたら学校に行けなくなる」などといった不安から、解剖実習が嫌でも言い出せない場合がほとんどです。嫌な気持ちを押し殺して参加し、深く傷ついているのです。
動物虐待と凶悪犯罪には深い関連性がある
「動物の愛護及び管理に関する法律」(以下、動物愛護法)は、1999年に初めての改正がなされましたが、この改正法が早期制定に至った背景には、頻発する青少年による凶悪事件があります。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇と名乗ったA少年、さらには、佐賀のバスジャック事件の犯人とされる少年などが殺人事件を犯すその前段階において、小動物の虐待を行っていたという事実が判明したからです。最近では長崎県佐世保市で同級生を殺害した女子高生が、その前段階において繰り返し猫などの動物を解剖し、人間の解剖にも興味を持っていたことが判明しました。また、川崎市における中学1年生殺人事件の被疑者の少年も猫やハトを虐待していたと報じられています。最近では、2019年の茨城一家殺人事件の犯人が小学生の頃からヘビや虫を殺し始め、それがエスカレートし、猫を殺したりするようになったということも報じられています。
解剖は生徒の精神に悪影響を与える
時として、子どもたちに解剖を行わせる目的は命の大切さを知ってもらうことだと主張する教育者がいます。その論理だと殺人などの凶悪犯罪をおこした者たちは皆、命の尊さを知った心優しき人物ということになってしまいます。生き物を切り刻んで命の大切さを知ることができるなんて、そんな馬鹿げた話はありません。
動物虐待と青少年犯罪の深い関連性が指摘され、また、教育の名の下で生き物を殺したり、その死体を粗末に扱うことが青少年の精神面にいかに大きなダメージと悪影響を与えるかが明らかになってきた昨今、解剖実習に対しても批判は大変高まってきています。
カナダのレイクヘッド大学客員教授であるジャン・オークリー博士は、Animals and Society Institute発行の Policy Paper「ANIMAL DISSECTION IN SCHOOLS:LIFE LESSONS, ALTERNATIVES AND HUMANE EDUCATION」の中で、「解剖の目的は、体の仕組みを教えることではあるが、動物を傷つける行為を繰り返すことによって、学校の科学の名の下に動物を殺すことが倫理的に許される、人間の興味、関心が動物の生命より優先されるということも、知らぬ間に教えてしまう」と述べています〈*1〉。また、学術誌「Journal of Contemporary Ethnography」には、「解剖を行わせることが、生徒たちに動物や自然に対して何も感じない冷淡な感覚を育ててしまう危険性がある。解剖のショックから、科学の道に進もうという意欲をそぐことにもなりかねない」という論文が掲載されています〈*2〉。
動物実験のない教育が広まってきている
動物実験は、「動物は痛みを感じない機械だ」といった17世紀の動物機械論から生まれ、人間中心主義の流れに乗って発展してきました。しかし、21世紀の現在、生命に対する人々の意識は大きく変わりました。たとえば、化粧品や医薬品等の産業分野において代替法を採用するなどして、動物実験削減の努力が進められています。
教育分野については、ドイツ、イタリア、ベルギー、デンマーク、フランス、イギリス、オランダ、スイスなどでは、初等中等教育における生体解剖を禁止するなどの規制を設けています。
そして、従来動物実験が必要不可欠と考えられていた大学の獣医学部や医学部でさえも、多くの学生たちが「動物を殺す非人道的な教育を拒否する権利」を主張し始めました。その結果、動物実験を廃止して、代替法を用いる学校が急増してきたのです。
米国とカナダでは、獣医学校の約70%が動物を犠牲にする実験・実習をしないで卒業できるようになり、211ある医学校のすべてにおいて生きた動物を用いるカリキュラムがありません。英国も同様で、たとえば名門ケンブリッジ大学の獣医学課程においても、生きた動物を犠牲にするカリキュラムはありません〈*3〉。
さらに医師の採血、挿管や手術をはじめとした医療手技の訓練にも、子猫やフェレット、ブタなどを用いていたものをコンピューターシミュレーションなどに切り替え、動物を用いた方法を廃止する医療センターが続々と増えています。
一方、日本でも、学校での解剖実習に対する批判は大変高まってきており、JAVAではこれまでいくつもの学校等に対して、生体や死体の解剖の廃止を求めてきたところ、それらの学校はJAVAが指摘した問題点を理解し、廃止しています。
公立大学の医学部に関しては、以前、JAVAが2019年1月1日~2020年8月31日までの期間における解剖実習に関する行政文書開示請求を行った際、名古屋市立大学と大阪市立大学は、同期間内に動物の生体解剖実習はカリキュラムにないと回答してきました。また、奈良県立医科大学はJAVAの指摘を受けて、医学生のカリキュラムで行っていたすべての動物の解剖実習、そして「摘出モルモット腸管の収縮に対する各種薬物の影響」と「ラットを用いたin vivoでの循環動態の観察と薬物による修飾」の実習を廃止しました。
知識を身に付けさせるなら代替法で行うべきある
動物の体の仕組みや解剖学などを学ぶ方法には、生体や死体を用いる以外にも、コンピューターシミュレーション、動画、精巧な3Dの模型など様々あります。そのような代替法を使用すれば、解剖の過程を何回でも繰り返すことができ、また生徒・学生一人一人が自分のペースで行うことができるなど、多くのメリットがあります。
生き物を用いて解剖を行った生徒・学生と代替法で学んだ生徒・学生では、その知識に差はない、もしくは、代替法で学んだ生徒・学生の方が優秀であったことが数多くの研究で証明され、「The American Biology Teacher」や「Advances in Physiology Education」「Journal of Biological Education」などに論文が発表されています〈*4〉。
こういった動物を用いない方法での学習は、生き物に対して「命を尊び大切にしなければならない存在」ということも生徒・学生たちに学ばせることができます。つまり、知識を身に付けさせるとともに、生命を尊重する態度も養わせたいならば、代替法を用いるべきなのです。
死体の解剖も子どもを傷つけ、生命倫理観を狂わせる
解剖実習では、生体以外にイカや魚の死体、ブタの心臓や眼球、鶏の脳などの臓器・器官も解剖されています。死体・臓器・器官であれば自ら殺すわけではなく、動物たちに痛み、苦しみ、恐怖を味わわせることにはならないので、解剖をすることで生徒たちが抱く罪の意識は生体解剖に比べて少ないと思われます。しかし、多感な子どもたちの心情は複雑です。
最近では、ブタをはじめ、さまざまな動物と暮らしている家庭もあります。テレビ番組でも、ブタがいかに人懐っこく、賢いかなどを紹介したりもしています。そんな背景において、可愛らしいブタの印象と、教師が解剖するよう指示したブタの死体、くり抜かれた目玉や取り出された心臓の間で生徒たちはどう気持ちを整理したらよいのでしょうか。
「死体や取り出した臓器・器官だから、殺す罪悪感がないので問題ないだろう」というのは、純粋さを失った大人の考え方であり、想像力豊かな子どもにとって、ブタの死体や臓器・器官を切り刻むこともまた、つらくおぞましい記憶となって心の傷として残ってしまうものです。だからこそ、JAVAにはイカや魚の死体、ブタの心臓や眼球、鶏の脳などについて「解剖をやりたくない」という生徒たちの声が届いているのです。
「解剖することは食材の生き物をさばくことと同じで、感謝すれば許される」といった考えを持ち、生徒たちを諭そうとする学校もあります。解剖される動物も食される動物も、その犠牲をなくすべきと考えるJAVAとは異なり、こういった考えを持つ人は少なくないでしょうが、それは大人の固定観念です。子どもたちが、命あった動物を切り刻む行為に対し罪悪感や不快感を覚えることや、死体となった目の前の弱き動物への憐みの感情を抱くことを止めることはできません。それは、子どもに自然に沸き上がってくる思いやり、倫理観、道徳心であるだけでなく、多感な時期に育むべき最も重要な心情であると言えます。教育者ならば、大人の価値観や固定観念を押し付けるのではなく、「生き物の体を切り刻みたくない」といった他者を思いやる純粋な気持ちに深い理解を示し、褒め、さらに伸ばしていくように指導することが必要ではないでしょうか。それを「食べることと同じ」と、大人の価値観を押し付けて、生徒の憐れみや思いやりの純粋な心を砕こうとすれば、子どもたちは「食べているものなんだから、感謝すれば何をしてもよい」という見方を持ってしまったり、弱き動物を慈しむ気持ちに蓋をするようになり、殺すことや切り刻むことに無感覚になってしまったりする危険性があります。
献体制度とは明らかに異なる
獣医学生の実習において、飼い主から提供を受けた動物の死体、つまり献体を利用する方法が欧米では多くの大学で採用されています。死体という点は同じでも、この献体は、「その動物が治療を施すことができず、そのまま生かしておくことの方が苦しむことになる重大な傷病を患い、獣医学的な判断と、心からその動物を思う飼い主による判断によって、苦痛のない方法で死に至った」、つまり、安楽死となった動物の遺体を飼い主の承諾のもと獣医学実習に利用しています。人間の献体システムとただ一つ違うのは、その動物の意思は確認できないので、飼い主がその代理をしている点です。
献体制度の場合、かかりつけの獣医師から今までのカルテを入手することが可能で、病歴などの情報が実習に大いに役立ちます。さらに、献体の場合、その動物の名前などもわかっていますので、飼い主に大切にされてきた動物、家族の一員だったという認識を学生が持つことで、遺体を丁重に扱います。それに対し、畜産など人間の都合で殺した動物たちはこういった状況とはまったく異なり、「どうせ処分するか、腐敗する死体を活用してやっている」「教材や標本にすることで無駄にしないでやっている」といった感覚に陥り、死体をモノのように扱うことになり、参加する生徒たちの生命軽視にもつながる恐れがあります。
教育において、「観察する」「仕組みを調べる」ことの大切さを否定するつもりはありませんが、それは、痛みを伴わない方法であるのは勿論のこと、命の尊厳を踏みにじることのない方法でのみ許される行為です。命ある動物たち、命あった動物の死体を、人間の好奇心を満たすための道具として、まるで機械の構造でも調べるかのように、切り刻み、内臓を見るといった行いは、残酷極まりありません。
*1 Jan Oakley (2013)『ANIMAL DISSECTION IN SCHOOLS: LIFE LESSONS, ALTERNATIVES AND HUMANE EDUCATION』 Animals and Society Institute
*2 Solot, D., Arluke, A. (1997). Learning the scientist’s role: Animal dissection in middle school. Journal of Contemporary Ethnography, 26(1), 28-54
*3 Physicians Committee for Responsible Medicine(All U.S. and Canadian Medical Schools Are Free of Live Animal Use)
*4 The Humane Society of the United States(Comparative Studies of Dissection and Other Animal Uses)